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12月8日は、太平洋戦争の開戦の日であり、父の祥月の命日でもある。35年前の今日、父は83歳で逝った。 4人兄弟の三男に生まれた父は、父親を早くに亡くし、母親一人の手で育てられた。 学校を終えるとすぐに、宮大工の師匠の家に弟子入りをし、修行をしていたが、同じ村の地主の家から婿養子にと望まれ、母と一緒になった。地主と言っても、入ってくる小作米だけでやっていけるほどの反別はなかったので、自らも米を作り、蚕を養い、漁師まで手広くやっていた。 戦後、農地解放で殆どの田んぼを手放すことになった父は、米作りに見切りをつけ、果樹に切り替えた。海に面したなだらかな山を開墾し、そこにまず桃を植えた。しかし、桃は保存が利かず販売に苦労することがわかると、すぐにミカンに切り替えた。何事にも研究熱心だった父は、県の指導員に来てもらったり、自らも津久見に視察に出かけたり、同業者から情報を得たりしながら、美味しいミカン作りに励んでいた。まだミカン農家が少なかった時代、県の母樹園に指定された父のミカンの苗は、あちこちのミカン農家に配られるまでになっていた。 我が家で獲れたミカンは、毎朝のように兄が自転車で市場に持って行き、母がリヤカーに積んで隣の町まで売りに出かけた。その頃、ミカンの値はけっこう高く、家計を支える主な収入源になっていた。 やがて孫が農業高校を卒業し、後を継いでくれるとわかると、それまでの規模では足りないと思った父は、その頃、国が立ち上げた国営開拓パイロット事業に期待をかけ、新しくミカン畑を手に入れた。 国と県は多額の補助を出し、土木業者と一体になって、海岸線に沿った山々を開墾し、大掛かりにミカン栽培を推奨した。生産過剰になるのは目に見えていた。山々でミカンがたわわに実り始めた頃から、果たして価格の暴落が始まり、山を手放す農家が増え始めた。そして、我が家も、ついに三代続いたミカン作りに終止符を打った。 幸いだったのは、その事実を知らないまま、父が一足早く逝ったことだった。 その年、父は、我が家のミカンが全部収穫し終えるのを待っていたかのように、その日の夕方、静かに息を引き取った。 父の最期を見届けるまで、ベットの傍に付き添って下さっていた主治医の先生を玄関先で見送った。心筋梗塞で倒れて以来、半年間、毎週のように往診して下さった先生だった。先生の白い後姿が闇の中に消えていくのと入れ替わりに、チラチラと白いものが落ちてきた。初雪だった。 |
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フロンテア・スピリットのお父さんだったんですね・・。心が一番・・?それをボクは生きているあいだに理解できないかもしれません・・。 |
さし絵テラ 2011/12/09 00:10 |
嵐寛寿郎と同じ誕生日なんですね。(1903年生まれ) |
スリムー 2011/12/09 08:22 |
テラさん、いつもコメントをありがとうございます。 |
ビキタロウ 2011/12/09 18:09 |
スリムーさん。こんばんわ。 |
ビキタロウ 2011/12/09 19:10 |
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