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2012/05/22 14:30
姉の住んでいるオーストラリアの町には、山がないという。その山のない町から、久しぶりに姉が帰国した。姉を迎えてくれた日本の山々は、今や新緑が美しい。
日本を離れて30数年、山のない国に暮らして、姉は初めて日本の自然の豊かさと、その有難さを実感したと言う。その思いを随筆、「ふるさと求めて花いちもんめ」に書いている。
「雲の連山」
ある夕方、町からの帰り道、いつものハイウエーを走っているうちに、なんだか別世界に迷い込んでしまったような驚きを味わった。というのは、道の前方、西の地上に黒ずんだ横雲がどっかりと座っていて、それがあたかも連なった山々に見えたからだ。
私の住むこの地域は、一盛りの山も見えないオーストラリア特有の平坦地で、晴れた夕方なら、ぎらぎらと地平線に落ちていく真っ赤な太陽を追いかけるように走るのだが、その日は夕立が降ったせいか、黒雲が低く垂れこめ、地平線近くまで降りたものらしい。雲の峰は少しずつ動いて高低を作り、山麓のような明暗をかもしだすので、いつの間にか私は連山の麓に向かってドライブしているような錯覚にとらわれてしまった。それは、どこかでいつも見ていたような懐かしい風景だった。
どこだろう・・・・・・そうだ、これは、日本の何処にでもある風景ではないか。緑の平野の中に町があって、まわりに遠く近くゆるやかな青い連山が望めるような田舎町・・・・・私はいつしか、そんな町の道路を走っていた。
今、私は、あの連山の麓にある我が家に向かって走っているのだ。山に近づくにつれ、山肌の靄も見え、夕暮れ時のように濃くなっていく。ぽつぽつと家の灯が見える山里の村が近づいてくる・・・・・・
それは、家に着くまでのほんの十分足らずの間だったが、私は日本に帰ったような安らぎに満たされていた。仮定した風景とは知りつつも、うれしかった。私の心の中で、無意識に求めていたものがわかったからだ。それは、青い山並みに抱かれている人間生活の安らぎである。山が、町や村を優しくとり囲み、清流を生み、田畑を潤し、その緑は人々の心をも潤すという、ありふれた日本の自然の恵みが、幼い頃から心の奥に染み付いていて、そんな風景が自分の周りから消えたとき、人は何かしら渇きを覚えるのだろう。何十キロ走っても平原と森と濁った川しかないこの地方で暮らすうちに、少しずつ心の渇きは感じていたが、普段の暮らしの中で、その原因を深く考えることもしなかった。あの雲の連山は、奇しくもそれを教えてくれたと言える。
山への渇望は、山国日本に生まれた者の自然な傾向として、外国の広野に住んでみないと、実感出来ないものなのかも知れない。
生まれたときから毎日眺めていた故郷の山は、たまに帰郷するものにとっては、いつも優しく迎えてくれる母のようである。「山ふところ」とか、「里山」という言葉は、なんと味わいのある美しい言葉だろう。
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